「年収の壁」より「防衛費の壁」を崩せ―失われた「1億総中流」と真の国力
自民党が2026年度税制改正で「年収の壁」を現行の160万円から168万円に引き上げる。国民民主党が求める178万円には届かなかったが、まあ、そんなことはどうでもいい。問題の本質は別のところにある。
年間2万円から3万円の減税効果を巡って与野党が駆け引きを繰り返している間に、防衛費は5年間で6割増の8.7兆円に膨れ上がった。しかもその半分以上は米国への装備品購入に消え、日本経済への波及効果はほぼゼロ。一方で実質賃金は3年連続マイナス、円安は1ドル155円を超え、物価高が国民生活を直撃している。
いま必要なのは「年収の壁」の微調整ではない。防衛費という聖域を崩し、国民生活を最優先にする財源配分の大転換だ。
月2,000円の「恩恵」という虚構
「年収の壁」を168万円に引き上げると、いくら減税になるか。年収200万円から1,000万円の層で、年間2万円から3万円程度だ。月額にすれば2,000円前後。コンビニ弁当2、3個分である。国民民主党が主張する178万円に引き上げても、大して変わらない。
ところが、実質賃金は2022年から3年連続でマイナスだ。2024年は名目賃金が2.9%上がったのに、物価が3.2%上がったから実質では0.2%減った。2025年春闘では33年ぶりの5%台の賃上げが実現したが、ボーナスを除いた基本給で見ると実質1.5%のマイナスだ。賃金が上がるより速く、物価が上がっている。
月2,000円の減税では、この実質賃金マイナスに対する「焼け石に水」でしかない。
さらに重要なのは、この政策が恩恵を受ける層の限定性だ。「年収の壁」引き上げの主な対象は、年収103万円から168万円の範囲で働くパート労働者である。実質賃金低下に苦しむ正社員やフルタイムで働く非正規雇用者には、ほとんど関係がない。
日本総研の試算によれば、仮に所得税の基礎控除を75万円引き上げて178万円にしても、新たに働き始める人は30万人程度だという。年収の壁のせいで失われている労働力が120万人分と推計されているから、効果はその4分の1に過ぎない。
なぜか。多くのパート労働者が働き控えをする本当の理由は、所得税ではないからだ。従業員51人以上の企業では年収106万円を超えた時点で社会保険(厚生年金・健康保険)への加入義務が発生し、月額約1.5万円の保険料負担が生じる。小規模企業の場合でも、年収130万円を超えれば扶養から外れ、国民年金(月1.75万円)と国民健康保険(月0.8万円〜1.5万円)の負担、合計で月2.5万円〜3万円が発生する。所得税の数千円より、こちらの負担の方がはるかに重い。所得税の壁だけ引き上げても、この「社会保険の壁」は残ったままだ。
円安という「見えない増税」
実質賃金がマイナスになる本当の理由は、円安にある。2024年には一時1ドル161円台を記録し、2025年11月現在も155円から158円あたりをうろうろしている。実質実効為替レートで見ると、約50年ぶりの円安水準だ。
円安になると何が起きるか。エネルギーと食料品の価格が上がる。日本はエネルギーの9割以上、食料の6割以上を輸入に頼っている。円の価値が下がれば、これらの輸入品の値段が上がり、物価全体を押し上げる。企業がいくら賃上げしても、円安による物価上昇がそれを上回れば、実質賃金は改善しない。これが今の日本が抱えている問題の核心だ。
ガソリン価格を見れば、円安の影響は一目瞭然だ。2025年4月時点でレギュラーガソリンの全国平均は186.5円で、過去最高水準にある。政府は補助金で価格を抑えているが、その補助金がなければもっと高い。
ガソリン価格の高騰は原油価格だけの問題ではない。原油はドル建てで取引されるから、円安になればその分だけ輸入コストが上がる。2024年度の平均為替レートは152.57円で、前年度の143.99円から約9円も円安に振れた。建設物価調査会の分析によれば、「原油輸入価格高止まりの最大の要因は、円安の進行」だ。
しかも、ガソリン価格の約4割は税金である。本来のガソリン税28.7円に、1974年に導入された「暫定税率」25.1円が上乗せされ、合計53.8円。さらに石油石炭税2.8円。そして、これらの税金を含めた価格に消費税10%がかかる。税金に税金がかかる「二重課税」だ。
「暫定」税率は50年以上も続き、もはや「恒久」税率だ。政府は2025年12月に暫定税率を廃止する方針だが、同時に補助金も終了する。差し引きすれば実質的な値下げ幅は15円程度にとどまる。円安が続けば、その効果も吹き飛ぶ。
円安の要因は複合的だが、最大の要因は日米金利差である。米国の政策金利が4.5%から4.75%であるのに対し、日本は0.25%にとどまる。この金利差が投資家の円売り・ドル買いを促し、円安を加速させている。
だが、もう一つ見落とせない円安の原因がある。高市政権の大盤振る舞いだ。2025年度の経済対策は20兆円規模に達する。2024年の13.9兆円、2023年の13.1兆円と比べても膨らみ方が尋常ではない。この巨額のバラマキが、将来の財政悪化への不安を呼び、国債と円の信用を落としている。野村総研の木内登英氏が指摘するように、「高市政権の巨額の経済対策が財政リスクを高め、国債と通貨の信認を低下させている」のだ。
ここに矛盾がある。高市政権は「物価高対策」を掲げながら、その財政政策が円安を加速させ、物価高を悪化させている。円安が実質賃金を押し下げ、物価高対策の効果を帳消しにしている。マッチポンプもいいところだ。
経済波及効果ゼロの防衛費
防衛費の膨らみ方は異常だ。2022年度には5.4兆円だった防衛費が、わずか3年で8.7兆円になった。5年間で6割増である。高市政権はさらに、当初2027年度に達成予定だったGDP比2%を2025年度に前倒しし、補正予算で約1.3兆円を追加した。
問題は金額だけではない。この防衛費の中身だ。2024年度の防衛関係費7.9兆円のうち、防衛装備品の購入費は約1.7兆円。そのうち米国からの調達(FMS契約)が約9,316億円で、装備品購入費全体の50%を超える。
木内氏が指摘するように、「こうした構造では、防衛費を増やしても、その大部分は米国からの装備品輸入に消える。それは日本のGDPを増やさないし、経済への波及効果もない」。
要するに、防衛費増額の半分は米国への支払いに消え、日本国内の経済にはほとんど貢献しない。公共事業のように国内でお金が回るのとはわけが違う。装備品を米国から買えば、そのお金は米国の雇用と景気を潤すだけだ。日本の防衛費増額は、実質的に「米国への上納金」になっている。
しかも、この巨額の防衛費の財源は確保されていない。5年間で43兆円の防衛力整備計画のうち、恒久財源として確保されているのは1兆円程度だけだ。残りは決算剰余金や基金の取り崩しといった一時しのぎに頼っている。増税による財源確保(法人税、所得税、たばこ税)は野党の反対で宙に浮いたままだ。
かつて政府は2022年12月、防衛費の財源として東日本大震災の復興特別所得税を活用する方針を決めた。復興税の税率を1%引き下げる代わりに、課税期間を14年延長(2037年→2051年)し、削減した1%分を防衛費のための新たな付加税に充てる。政府は「復興のための総額は維持する」と説明するが、野党や被災地からは「事実上の転用」「復興財源の流用」と強い批判が出ている。復興のために集めた税金の枠組みを使って防衛費を賄う。これを財政のモラルハザードと言わずして、何と言うのか。
消費税減税という本命
消費税を10%から5%に下げたらどうなるか。年間約10兆円の減税効果が生まれる。年収300万円の世帯なら年間約15万円の負担が減る。「年収の壁」引き上げによる年2万円から3万円とは、規模が違いすぎる。しかも消費税減税は全国民が対象だ。一部の層に限られる「年収の壁」政策とは違い、正社員もフルタイムの非正規雇用者も、すべての人が恩恵を受ける。
世論調査では6割が消費税減税に賛成している。世界では既に100以上の国と地域で消費税(付加価値税)の減税が実施され、物価高対策として効果を上げている。
最大の反対論は「財源がない」というものだ。本当にそうだろうか。
防衛費をGDP比2%から1%に戻せば、約5兆円の財源が生まれる。米国向けの装備品購入を削れば、さらに数兆円が確保できる。合計で7兆円から8兆円の財源が確保できる。消費税5%減税の必要財源10兆円の大部分を賄える計算だ。
「防衛費は削れない」という反論が聞こえてきそうだ。だが、経済波及効果のない米国への装備品購入を削ることと、日本の安全保障を弱めることは別の話だ。むしろ、その財源を国内の防衛産業育成や、インフラ整備、サイバーセキュリティ強化に回せば、本当の意味での防衛力強化につながる。
失われた「1億総中流」
かつて日本には「1億総中流」という言葉があった。1970年代から1980年代、国民の約9割が自分を「中流」だと考えていた時代だ。当時のジニ係数(格差を示す指標)は0.349で、格差は最も小さかった。地方への工場立地は年間4,000件に達し、今の4倍だった。製造業で稼いだ金が、大都市だけでなく地方にも流れ、国全体が豊かさを分かち合っていた。
あれから40年余り。日本はどう変わったか。
ジニ係数は0.5263まで上昇し、格差は拡大した。相対的貧困率は16%、つまり6軒に1軒が貧困世帯だ。子どもの貧困率も16%で、6人に1人の子どもが貧しい家庭で育っている。年収299万円以下の低所得層と1,500万円以上の高所得層が増え、300万円から1,499万円の中間層が減っている。「1億総中流」は完全に崩壊した。
これは単なる数字の問題ではない。社会の安定と活力が失われたということだ。中間層が厚い社会では、人々は教育や医療にアクセスでき、子どもに投資し、消費を通じて経済を回す。格差が小さい社会では、社会的な分断が少なく、政治も安定する。
優先順位の転換を
高市政権は物価高対策を掲げながら、20兆円の経済対策で円安を加速させ、防衛費増額で財政を悪化させている。政策が自らの目的を打ち消している。
年間2万円の「年収の壁」調整に政治の注目が集まる一方で、年間10兆円規模の消費税減税が真剣に議論されないのは異常だ。防衛費をGDP比1%に戻し、経済波及効果のない米国向け装備品購入を削れば、財源は確保できる。
真の国力とは、軍事力ではなく国民の購買力だ。中間層の厚みだ。国民が貧しい国に、守るべき「豊かな日本」など存在しない。


