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実質賃金30年停滞の国で、子どもを産めと言われても

はじめに——ある数字が突きつける現実

「将来、子どもが欲しくない」

そう答えた18〜29歳の未婚女性が、64.7%

ロート製薬が2026年3月に公開した「妊活白書2025」の数字です。男性の60.7%を初めて上回り、過去最高を記録しました。

もうひとつ、印象的なデータがあります。「子どもが欲しい」と「欲しくない」が逆転するのは、25歳。それより前は「いつかは欲しい」が多数派なのに、25歳を境に「いらない」が上回ります。20代半ばで、人生の大きな選択が静かに決まっていくんですね。

「少子化が止まらない」——このフレーズは、もう何十年も聞かされてきました。政府は「異次元の少子化対策」を掲げ、児童手当を増額し、高等教育の無償化を進めています。それでも2024年の合計特殊出生率は1.15。出生数は過去最少を更新し続けています。

なぜ、若い女性たちは子どもを望まなくなったんでしょうか。

「お金がないから」「キャリアが途切れるから」——よく聞く説明です。もちろんそれも大きい。でも、本当にそれだけでしょうか?


経済だけでは説明できない7つの壁

少子化の原因を「お金の問題」だけと考えるのは、正確な答えではありません。データを丁寧に見ていくと、少なくとも7つの壁が重なり合っているように見えます。

壁① 経済的不安

妊活白書2025によると、出産・育児に対する経済的不安を感じている割合は女性71.7%、男性63.2%。第16回出生動向基本調査でも、理想の子ども数を持たない最大の理由は「子育てや教育にお金がかかりすぎるから」で52.6%に達します。

これは間違いなく大きな壁です。ただし、後で見るように、経済力がある層でも子どもを持たない選択が増えています。

壁② キャリアの断絶

「子どもを持つことでキャリアに支障が出る」と感じる女性は61.4%(男性51.2%)。約10ポイントの差があります。

東京大学の山口慎太郎教授の研究では、「子育てペナルティ」という現象が明らかになっています。第一子の誕生を機に女性の収入が大幅に落ち込み、10〜15年経っても完全には回復しない。これは日本だけでなく世界中で観測されていますが、日本の男女間賃金格差(OECD36カ国中ワースト2位)がそれを一層深刻にしています。

壁③ 「ワンオペ」の常態化

日本の夫の家事・育児関連時間は約2時間で、先進国の中でも低い水準です。出生動向基本調査では、「育児の心理的・肉体的負担に耐えられないから」が23.0%、「夫の家事・育児への協力が得られないから」が11.5%

これは経済問題ではありません。家庭の中の不平等の問題です。

壁④ 育児の孤立

こども家庭庁の2024年調査(回答者7,316人)によると、子育ての負担感を感じるのが約6割、孤立感を感じるのが3割弱。同居者以外で子どもの面倒を見てくれる人が「いない」割合は大都市で37.6%です。

核家族化が進み、三世代世帯は減少の一途をたどっています。「困ったときに頼れる人がいない」——この現実が、出産そのものへの心理的ハードルを上げています。

壁⑤ 知識不足

子どもを望む未婚層でも、半数以上が妊娠・出産の情報収集を始めていません。AMH検査(卵巣年齢の目安になる検査)の支援制度や、不妊治療の保険適用すら知らない人が過半です。正しい知識が届く前に「もう遅い」と判断が固まってしまうんですね。

壁⑥ 価値観の地殻変動

「結婚しても必ずしも子どもを持たなくてよい」と考える人の割合は、1993年以降一貫して増加し、2003年以降は「子どもを持つのが当たり前」を上回っています。

博報堂100年生活者研究所の2025年調査では、日本人が重視する価値観が明確に変わりました。2000年代までの「家族のつながり」「仕事」「経済的安定」から、2020年代は「多様性」「自分らしさ」「柔軟な働き方」へ。

子どもを持つことが「幸せの必須条件」から「選択肢のひとつ」になった。これ自体は個人の自由であり、否定されるべきものではありません。

壁⑦ スマホと対面関係の希薄化

韓国(出生率0.75)、フランス(戦後初の自然減)、日本(1.15)、中国(婚姻件数60%減)。文化も宗教も経済水準もまるで違う国が、同時期に同じ方向へ動いています。

複数の研究者が指摘するのは、スマートフォンの普及による若者の対面時間の激減と出産欲求の低下の関連です。唯一の例外はサブサハラ・アフリカで、スマホ普及率がまだ低い地域。因果関係の証明には至っていませんが、「経済・制度・ジェンダーの枠組みだけでは説明できない何か」が起きていることを示唆しています。


30年、給料が上がらなかった国で

7つの壁のうち、筆者が最も構造的だと考えるのは、実は壁の「外側」にあります。日本という国の経済環境そのものです。

先進国で唯一、賃金が伸びなかった国

厚生労働省の「令和5年版 労働経済の分析」によると、1996年を100とした場合の名目賃金の推移はこうなっています。

  • アメリカ・イギリス:230〜240
  • フランス・ドイツ:約160
  • 日本96(むしろ4%減少)

OECDの年間実質賃金データで見ると、この30年間の伸び率は、日本が+11.4%。アメリカは+92.3%、ドイツは+75.0%、韓国にいたっては+162.5%。日本のように実質賃金が低迷したのは、先進国ではメキシコと南欧諸国くらいです。

OECDの雇用見通し2025も、「日本では数十年にわたって賃金が停滞していた」と明記しています。

なぜ上がらなかったのか

原因は複合的ですが、大きく4つに整理できます。

①非正規雇用へのシフト。 企業は安価な労働力として非正規を増やし、全体の賃金平均を押し下げました。

②設備投資の停滞。 低成長見通しと海外移転により国内投資が不足し、労働生産性が伸びませんでした。

③労働市場の硬直性。 長期雇用慣行のもとで「辞めるぞ」という交渉カードが機能しにくく、賃金が市場原理で決まりませんでした。

④「下げられないから上げない」。 業績が回復しても基本給は据え置き、ボーナスで調整する。日本銀行の研究は、「賃金が下がらないなら、上がらなくても労働者はさほど執着しない」という行動経済学的メカニズムを指摘しています。

でも、ここでもう一歩踏み込んで考えてみてください。この4つの現象は、なぜ30年も放置されたんでしょうか。

その背景には、法人税の減税に象徴される「大企業優遇」の構造があります。

法人税率はこの30年で30%から23.2%まで段階的に引き下げられました(内閣府税制調査会資料)。企業の所得は大幅に増えたのに、税収の伸びはそれに追いつかない。減税で浮いた利益はどこに行ったのか。

金融・保険業を除く全産業の内部留保(利益剰余金)は、2021年度末に初の500兆円台を突破しました(財務省「法人企業統計」)。三菱UFJリサーチ&コンサルティングの分析によると、過去10年で利益剰余金は約230兆円増えた一方、国内の設備投資(固定資産)は約60兆円しか増えていません。差額の多くは現預金として積み上がっています。

では、従業員への還元はどうか。法人企業統計をもとに第2次安倍政権発足(2012年度)からの推移を見ると、売上高は1.02倍(ほぼ横ばい)なのに、配当金は2.02倍に急増。一方、賃金は1.05倍にしか増えていません。利益は株主と内部留保に回り、働く人にはほとんど届いていないんです。

さらに、大企業と中小企業の格差も深刻です。中小企業の労働生産性は大企業のわずか4割(日経新聞2025年12月)。最新設備やシステムに投資する余裕がないことが原因ですが、その背景には下請け取引の構造的な不公正があります。金属労組JAMの安河内会長は「大手と中小の格差は容認できない水準まで開いている。背景には公正な取引がされていないことがある」と指摘しています。実際、日産自動車が公正取引委員会から下請法違反の勧告を受けた事例は、この問題の氷山の一角です。

つまり、①〜④はバラバラの問題ではなく、「大企業に利益が集中し、それが労働者にも中小企業にも還元されない」という構造の、異なる表れだったんです。非正規を増やしたのも、設備投資を控えたのも、賃金を据え置いたのも——すべて「利益を社内に溜め込む」という同じ行動原理から生まれています。

年収300万円の壁——結婚すらできない

内閣府の資料が示す、かなり厳しい事実があります。20〜30代男性で年収300万円未満の場合、既婚率は10%を下回ります。年収300万円以上の既婚率(25〜40%)との間に、巨大な断絶があるんです。

若年世帯の年間収入の最頻値は、1994年の400〜500万円から2014年には300〜400万円に低下しています。これは「お金がないから子どもを産めない」以前に、結婚の入口に立てない若者が増えているということを意味します。

「頑張っても報われない」が30年で常識になった

ここで重要なのは、実質賃金の停滞がもたらした心理的な影響です。

30年間「頑張っても生活水準が上がらない」——この経験が社会全体に蓄積されました。子育てには時間もお金も体力も必要です。その投資に見合うリターンが見えないとき、合理的な人間は投資を控えます。

博報堂の調査が示した「日本人の幸福度は1980年代をピークに低下し続けている」という認識と、妊活白書の「子どもを持つのが当たり前」から「個人の選択」への転換は、実は同じ現象の表と裏です。

経済が成長し、子どもを持つことが「生活水準の向上」と両立できた時代には、「家族の幸せ=個人の幸せ」でした。しかし30年間のゼロサム環境のなかで、子どもを持つことと自分の幸せは、トレードオフの関係に変わってしまったんです。

前の章で見た「価値観の変化」は、空から降ってきたものではありません。30年かけて、経済が醸成させたものです。


では、経済を立て直せば子どもは増えるのか?

「やっぱり経済の問題みたいだ。だったら、賃金を上げて経済を成長させれば、解決するんじゃない?」と思われたかもしれません。

しかし、話はそう単純ではありません。

北欧とフランスの「二番底」

日本の少子化対策のお手本とされてきた国々で、衝撃的なことが起きています。

2025年9月、日経新聞が報じました。北欧やフランスといった先進国が、出生率の「二番底」に直面していると。

  • フィンランド:2024年に1.25(日本とほとんど変わりません)
  • スウェーデン1.43
  • フランス1.62(かつて2.0近くありました)

これらの国は、日本よりはるかに経済成長し、実質賃金も上がり、手厚い育児休業制度や保育サービスを整えてきた国です。男女平等の指標でも世界トップクラス。それでも出生率は落ちました。

韓国——賃金が3倍になっても出生率は世界最低

さらに強烈な事例があります。韓国です。

過去30年で実質賃金は+162.5%伸びました。一人当たりGDPは日本を上回る水準に達しています。少子化対策に累計380兆ウォン超を投じました。

それでも出生率は0.75。世界最低です。

経済成長も、現金給付も、保育の充実も、韓国の出生率を回復させることはできませんでした。BBCの取材に対し、国連人口基金のアラナ・アーミテッジ氏はこう語っています。

これまでの歴史から、女性にもっと子どもを産ませようとする政策は、うまくいかないとわかっている。女性が子どもを産まない根本的な要因を理解する必要がある

数字で見る「経済だけでは足りない」

京都大学の柴田悠教授が2026年2月にこども家庭庁に提出した推計は、この問題を数字で示しています。

  • 児童手当増額・学費軽減(加速化プラン)→ 出生率+0.1
  • 若者の賃金が毎年4%上昇(10年間)→ 出生率+0.2
  • 保育定員率を100%に引き上げ → 出生率+0.1〜0.2

賃金上昇の寄与は+0.2で、単独施策としては最大です。でもそれだけだと、現在の1.15を1.35に引き上げるのがやっと。経済・保育・手当を同時に進めなければ、意味のある改善にはつながりません。


「産みたいと思える社会」とは何か

経済は大事です。でも、それだけでは足りない。

では、何が必要なんでしょうか。

「条件が整えば、気持ちは変わる」

妊活白書2025に、ひとつの希望があります。現在、子どもに積極的な妊活経験者のうち、**以前は消極派だった人が49.6%**を占めていました。

ほぼ半数の人が、何かのきっかけで「子どもはいらない」から「欲しい」に変わっているんです。「価値観の自由化」と「家族願望の消失」は、同義ではありません。条件が揃えば、意思は変わることがあるのです。

どれかひとつでは足りない

賃金上昇だけでは+0.2、経済的支援だけでは+0.1。どれも単独では焼け石に水です。賃金を上げても保育がなければ意味がない。保育を整えても、そもそも結婚できる経済力がなければ使えない。児童手当を増額しても、出産後にキャリアが断絶するなら踏み切れません。

東大・山口教授の「発想の転換」

東京大学の山口慎太郎教授は、2026年3月の読売新聞のインタビューで、こう語っています。

子を持つ親の費用負担や働き方制限など"コスト"ばかりに目が向いている。育児の"パフォーマンス"(成果)というポジティブな面にも注目してほしい

今の日本では、「子どもを持つ=大変なこと」という情報ばかりが流通しています。SNSには育児の苦しさを訴える投稿があふれ、メディアは教育費の高騰を報じ、企業は「出産したら戻ってこれないかもしれない」というメッセージを暗に発しています。

「大変さ」は事実です。嘘ではありません。でも、こども家庭庁の調査では、実際に子育てをしている親の9割以上が「満足感や楽しさ、自身の成長を感じる」と答えています。このポジティブな現実は、なぜか社会に十分伝わっていないんですよね。


おわりに——前提条件を整えるということ

少子化は「子どもの問題」ではありません。

若者がこの国で人生設計を描けるかどうか、という問題です。

30年間、実質賃金が上がらなかった。非正規雇用が増え、年収300万円未満では結婚すら難しい。結婚しても、育児は母親にのしかかり、キャリアは断絶し、頼れる祖父母は遠い。子どもを持つことの「コスト」は可視化され、「リターン」は見えにくい。

この環境で「子どもを産んでほしい」と言われても、合理的な人間であればあるほど、慎重になるのは当然です。

北欧やフランスの事例は、経済の立て直しだけでは不十分だと教えてくれます。韓国の事例は、お金をばらまくだけでは出生率は回復しないと教えてくれます。

しかし同時に、日本の場合はそもそも経済的な前提条件すら整っていない段階にあります。北欧は賃金が上がったうえで出生率が下がった。日本は賃金が上がらないまま下がり続けている。同じ「出生率低下」でも、出発点が違うんです。

経済の立て直しは、少子化の「解決策」ではないかもしれません。しかし、この国の若者が「子どもを持つかどうか」を自由に選べるようになるための、前提条件ではあります。

前提条件なしに「産んでくれ」と頼むのは、道具を渡さずに「家を建てろ」と言うのと同じです。

実質賃金の回復、非正規雇用の処遇改善、男女間賃金格差の是正、保育インフラの整備、育児とキャリアの両立支援——これらは「少子化対策」という名前で呼ばれていますが、本質的には「若者がまともに生きられる国にする」という、もっと基本的な話です。

少子化問題の最大の対策は、子育て支援の前に、日本経済の立て直しにあります。ただし、それは十分条件ではなく、必要条件です。

必要条件すら満たさない国に、子どもが増える未来は来ません。


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