国旗を守るのか、敬意を強制するのか——「日本国国章損壊罪」がはらむ危うさ
「日本国国章損壊罪」の創設に向けた議論が進んでいます。
国旗を傷つける行為は不快だ。国の象徴を粗末に扱うべきではない。そう感じる人は少なくないと思います。
しかし、この法案の本質は、本当に「国旗を守る」ことにあるのでしょうか。
私には、「国旗そのものを守る法律」というより、「国旗に対する敬意を刑罰で強制する法律」に見えます。ここに、この法案の最大の危うさがあります。
他人の国旗を壊すなら、すでに罰せられる
他人の物を壊す行為は、すでに刑法上の器物損壊罪で処罰できます。
公共施設に掲げられている国旗を破る。学校や役所、式典会場の国旗を傷つける。あるいは、他人が所有する国旗を汚損する。こうした行為は、国旗である以前に「他人の物」を損壊する行為であり、既存の刑法で対応できます。
つまり、公共物や他人の物を守るだけなら、新しい法律を作る必要はないということです。
では、なぜわざわざ新たな罪を作ろうとするのか。
それは、「自分の所有する国旗を、自分の意思で、公然と損壊する行為」まで処罰したいということではないでしょうか。
ここから、問題は憲法の領域に入ります。
自分の国旗を破る行為は、単なる破壊なのか
自分で購入した国旗を破る。燃やす。踏む。汚す。
多くの人にとって、それは不快に感じられる行為かもしれません。見たくない表現かもしれません。品のない抗議だと感じる人もいるでしょう。
しかし、それが政治的な抗議行動なら、単なる物の破壊ではなく、ひとつの表現でもあります。
政府への怒り、国家主義への違和感、戦争や権力への抗議、あるいは国のあり方に対する強い拒否感。そうした意思を、国旗を損壊するという形で表すことは、乱暴ではあっても政治的表現の一種と見るべきです。
民主主義において、守られるべき表現とは、多くの人が好む表現だけではありません。権力にとって不快で、社会の多数派にとって耳障りな表現も、表現の自由によって守られるべきです。
「著しい不快感」は誰が判断するのか
報道されている案では、「他人に著しい不快感や嫌悪感を抱かせる方法」といった要件が検討されているようです。
表現の自由への批判を意識し、処罰範囲を限定するための工夫にも見えますが、それでも危険をはらんでいます。
「著しい不快感」とは何なのか。誰が、どの基準で判断するのでしょうか。
ある人にとっては強い抗議表現でも、別の人にとっては耐えがたい侮辱に見える。ある人にとっては芸術表現でも、別の人にとっては国を傷つける行為に見える。
このような曖昧な基準を刑罰の要件にすれば、最終的には国家が「この表現は許される」「この表現は国民感情を害する」と判断することになります。
形式的には裁判所が判断すると説明されるかもしれません。しかし、実際にはその前に警察が捜査し、検察が起訴を判断します。つまり、国家機関がまず表現の適否を選別するのです。
国旗への敬意は、刑罰で作れるのか
国旗を大切にしたいという気持ちを否定するものではありません。
国旗に誇りを持つ人がいる。式典で国旗に敬意を払う人がいる。スポーツの国際大会で日の丸を見て胸が熱くなる人がいる。それは、ごく自然な感情です。
一方で、国のあり方に抗議するために、国旗を使う人もいます。その表現が不快に見えることもあるでしょう。乱暴で、受け入れがたいと感じる人もいるはずです。
しかし、その行為をもって、国家が「この人には国旗への敬意がない」と決めつけ、刑罰を科すことはできるのでしょうか。
国家が国民から信頼され、公正で自由な社会を築き、国民がその国に誇りを持てる。そうして初めて、国旗への敬意は自然に生まれるものだと思います。
ところが、国旗を傷つけた者は「敬意を持っていない」と罰するとすれば、話はおかしくなります。
それは「敬意を持て」ではなく、「敬意を持っているように振る舞え」という強制に近づくのです。
内心までは罰していない、行為だけを罰している——政府はそう説明するかもしれません。
しかし、国旗損壊が政治的意思の表現として行われた場合、その行為を罰することは、その背後にある思想や感情の表出を罰することになります。これは、思想の強制につながる危険があります。
法案化すればするほど、無理筋が見えてくる
この法案は、処罰範囲を狭くすればするほど「それなら既存法でよい」となり、広くすればするほど「表現の自由に反するおそれが強まる」ことになります。
公共施設や他人の国旗を壊す行為だけを対象にするなら、器物損壊罪で足ります。
一方、自分の国旗を使った抗議表現まで処罰するなら、それは物の保護ではなく、表現の自由への介入になります。
SNS投稿やライブ配信まで対象にすることも同じです。国旗という物の損壊ではなく、その映像やメッセージの内容そのものを処罰することになり、表現行為そのものへの介入になるのです。
つまり、この法案は、必要性を説明しようとすれば憲法上の問題が大きくなり、憲法上の問題を避けようとすれば必要性が消えます。
この構造自体が、法案としての無理筋を示しています。
国家は「国を愛する作法」を決めてはならない
国を大切に思うことと、政府を批判することは矛盾しません。
国旗に敬意を持つことと、国家権力に警戒することも矛盾しません。
むしろ、自由な国であればあるほど、国民は国家に対して異議を唱えることができます。政府を批判し、制度を疑い、象徴に対しても問いを投げかけることができる。その自由こそが、民主主義国家の強さです。
国旗を尊重する気持ちは、法律で縛りつけるものではありません。
国旗を大切にしてほしいなら、国民が自然にそう思える政治を行うべきです。国民の生活を守り、権力を私物化せず、説明責任を果たし、異論を封じない社会をつくる。その積み重ねによってこそ、国旗への敬意は育つのではないでしょうか。
しかし、国旗を傷つける者を罰することで敬意を維持しようとすれば、国家は国民に「国をどう愛するべきか」まで命じることになります。
それは、国旗を守ることではありません。
国家が、国民の内心に踏み込むことです。
問われているのは、国旗ではなく自由である
問われているのは、国旗を大切に思うかどうかではありません。
国旗を燃やす行為に賛成する必要はありません。美しい表現だと思う必要もありません。むしろ、多くの人が不快に感じるのは当然かもしれません。
しかし、不快だから処罰してよいという話にはならないのです。
表現の自由とは、自分が好ましいと思う表現だけを守るものではありません。自分が嫌悪する表現であっても、国家権力が刑罰で封じることには慎重でなければならない、という考え方です。
「日本国国章損壊罪」は、国旗を守る法律のように見えて、実際には国家への敬意を刑罰で強制する法律になりかねません。
そのような法律には、憲法違反との批判が避けられません。
国旗への敬意は、罰則で守るものではありません。
国民の自由を守ることによってこそ、国の象徴は本当の意味で尊重されるのではないでしょうか。


