ハローワークが「数字」を追って「人」を見失うまで――統計の粉飾、孤独な公務員
2025年12月、東京・ハローワーク墨田で発覚した職員による就職件数水増し事件。厚労省は「件数の水増しが目的」とみており、ただ数字を作るためだけの不正と考えられている。この事件が示すのは、個人の倫理崩壊ではなく、組織全体を蝕む構造的病理である。
ハローワーク墨田の職業相談担当職員は、2人分の偽名で求職者登録し、求人企業9社に応募、面接を受け、4社で採用された。その後すべて辞退したが、辞退情報がハローワーク側に伝わらず、4件の「就職実績」として計上され続けた。
発覚のきっかけは職員が面接時に実名を記入し、求職書類との食い違いを企業側が発見したことだった。厚生労働省が「件数の水増しが目的だった」とみている点が注目される。求人企業との金銭的授受の形跡はなく、純粋に「就職件数という数字」を作るためだけの不正と考えられる。
横領でも贈収賄でもない。ただ数字を作るために、架空の求職と面接を繰り返す。これは何を意味するのか。
経済学に「グッドハートの法則」という概念がある。「ある指標が目標になると、その指標は良い指標ではなくなる」というものだ。
ハローワークは2015年度から「総合評価制度」を導入した。各ハローワークに就職件数などの数値目標を設定し、月ごとの実績を公表、相対評価を行う。東京労働局管内では目標の95%を下回る月が続くと指導対象となる。この目標値は担当職員ごとに割り振られているという。
つまり、「目標」は実質的に「ノルマ」として職員の首を絞めている。就職件数という指標は本来、成果を測る手段だった。しかし評価の目的になった瞬間、不正を誘発する装置に変質した。
ノルマが課される一方、現場の状況は厳しさを増している。2014年から2024年の10年間で、ハローワーク経由の就職件数は42%減少した。民間の転職サイトやエージェントは急拡大し、2024年の新規就職者のうち、ハローワーク経由はわずか16.4%、民間サービス経由は40.7%と、2倍以上の差がついている。
さらに深刻なのは、2024年の新規求人における採用割合が11.6%と過去最低を記録したことだ。ハローワークに求人を出しても約9割が採用に至らない。1960年代には約50%だった採用率が、半世紀で5分の1以下に落ち込んだ。
民間にシェアを奪われる現場で数値目標の達成を迫られる職員たち。実際の求職者は減り続けているのに、目標は維持・強化される。ここに達成不可能なギャップが生じる。そのギャップを埋めるため、職員が「架空の需要と供給」を捏造する。すると見かけ上の数値が維持されるため、本部は「目標設定は妥当」と誤認し、是正が遅れる。
この悪循環で最も恐ろしいのは、不正によって数字が維持されるため、組織のトップが現場の危機を正確に認識できないことだ。
ハローワーク墨田は、全国18カ所指定の「課題解決型支援モデル事業所」の一つだ。態勢が強化され、模範的な運営が期待される施設で、この不正が起きた。これは偶然ではない。「モデル事業所」であるがゆえに「目標未達の許容度が低い」可能性が高い。優等生であろうとするほど、不正への誘因が強まる逆説だ。
9社が偽の求職者の面接に時間と労力を費やし、4社は採用手続きまで進めた。企業の善意を利用した詐欺的行為であり、ハローワークへの信頼を根本から損なう。
しかし最も深刻なのは、国の労働統計への影響だ。有効求人倍率や景気判断は、ハローワークの数値を基礎データとしている。今回の4件の不正は氷山の一角である可能性があり、長年公表されてきた「雇用情勢判断」自体にバイアスが含まれていた懸念が生じる。
武蔵大学の神林龍教授が指摘するように、「不正の件数そのものよりも、国が扱う重要な数値に疑問が生じる恐れがある」ことが最大の問題だ。
ハローワークが本来担うべき役割は「民間では救えない層」を支援することではなかったか。高齢者、障害者、長期失業者、就職氷河期世代――こうした人々を就職させることは、はるかに時間と労力がかかる。しかし「就職件数」という量的指標で評価すれば、困難なケースに時間をかける職員ほど評価が下がるという倒錯が生じる。
ハローワーク職員の約6割は非正規雇用だ。雇用期間が限定され、数年ごとに再応募が必要な不安定な立場で、厳しい数値目標を課される。これは個人の倫理観で防げる問題ではない。
2019年、厚生労働省の「毎月勤労統計」で長年にわたる不正調査が発覚した。本来全数調査すべき事業所を一部抽出調査に変え、その事実を隠蔽していた。今回のハローワーク不正も、構図は同じだ。現場の実態と目標のギャップを埋めるため、統計を歪める。厚労省の統計ガバナンスの欠如は、6年経った今も改善されていない。
労働基準監督署やハローワークを擁する厚生労働省自身が、その職員に過度な目標管理を課している。民間企業の過度なノルマを規制・是正する立場にある組織が、自らの内部でノルマ化を進め、職員を追い詰めている。厚労省が「件数の水増しが目的」とみている今回の不正は、制度の歪みの深刻さを証明している。
ハローワークの原点は「職業安定」、つまり国民一人ひとりの生活を安定させることにある。就職件数という数字は、その手段に過ぎない。
しかしいつの間にか手段が目的化し、「数字を追う」ことが自己目的化した。その結果、本来守るべき「人」が見えなくなった。求人企業という「人」、求職者という「人」、そして現場で苦しむ職員という「人」。
今回の事件は、一職員の倫理的逸脱ではなく、制度設計の矛盾が生んだ必然的帰結である。厚労省は「公的な職業紹介の信頼性を揺るがす」と述べたが、その信頼性を揺るがしたのは職員個人ではなく、職員を追い詰めた制度設計そのものである。
問われているのは、職員の倫理ではない。組織のあり方、そして公的サービスとは何かという根本的な問いである。
あなたの職場にも、「本来の目的」を見失い、「数字」だけを追うようになった瞬間はなかっただろうか。
売上目標、KPI、成果主義――それらは本来、組織や社会をより良くするための「手段」だったはずだ。しかしいつしか「目的」となり、不正や欺瞞を生み出していないか。
ハローワークの問題は、決して他人事ではない。現代社会全体が抱える「数値至上主義」という病理の、一つの症例に過ぎないのだから。
【参考資料】

