公務員の名刺、なぜ「自腹」なのか
「自腹が当たり前」だった、という違和感
大阪府松原市が2026年4月から、職員の業務用名刺を公費負担に切り替えた。初年度予算は約200万円、1箱100枚で1400円を想定し、新しい名刺が職員に配られ始めるのはゴールデンウィーク明けからだという。名刺のデザインは統一され、公式LINEのQRコードやマスコット「マッキー」のイラストが載るそうだ。
これまでは名刺を作成する場合の費用は「自腹」。名刺の様式もさまざまだった。
この一文を読んで、ほとんどの人が真っ先に思うのは、おそらくこういう言葉だろう。
業務で使う名刺を、社員に自腹で作らせる会社がどこにあるのか。
そんな当たり前のことが、いま「ニュース」になる国なのか、と。
「公費は無駄遣い」という反射神経のズレ
この種の話題には、必ず一定数の反対論が湧く。
- 名刺に税金を使うな
- 全員分作れば余って捨てるだけだ
- 名刺は職員個人のものだろう
だが、これらの批判は焦点がずれている。
名刺は職員が自分を売り込むためのアクセサリーではない。自治体名・部署名・公式連絡先を相手に正確に伝える業務ツールであり、QRコードを載せれば防災情報・観光情報・公式LINE・行政手続きへの誘導までできる、小さな広報媒体でもある。
問題にすべきは「公費で作ること」ではなく、どう運用するかだ。
- 単価が高い
- 外注ありき
- 枚数が過剰
- 誰に何枚配ったか分からない
- 私的利用のルールがない
- 経費が公開されていない
これらが揃えば、確かに税金の無駄遣いになる。逆に言えば、ここを設計し直せば、批判はかなり防げる。
「自腹慣習」の正体——出所不明の旧通達
そもそも、なぜ自治体職員の名刺は「自腹が当たり前」になっていたのか。
メディアや自治体の説明にしばしば登場するのが、旧自治省通達である。「自治体職員の名刺を公費で負担することはなじまない」旨の通達があった、という言い伝えだ。滋賀県栗東市の内部資料も、自費が慣例になっている理由としてこの通達を挙げている。
ところが面白いのは、その同じ資料にこう書かれている点だ。
現在、総務省ではそのような通知は出していないとのこと。
東京新聞の取材でも、総務省側は当該通達の存在を確認できないと回答している。ジチタイワークスが2021年に行ったアンケートでは、回答した自治体職員の約91%が名刺は「自腹」だった。誰も今は出していない通達を根拠に、9割の職員が業務に必要な名刺を自分の財布から払い続けてきた、ということになる。
これは滑稽でもあるが、行政組織の本質を突いている。一度できた慣行は、根拠が消えても残る。「前例がある」「ずっとそうだった」が、説明より優先されるからだ。
口火を切ったのは1995年の三重県だった
実は、自治体の名刺自腹慣行に最初に風穴を開けたのは、いまから30年前の三重県である。1995年に知事に就任した北川正恭氏は、「県職員は全員が営業マンだ」という発想のもと、当時生きていた旧自治省通達を押し切って、職員の名刺を公費負担に切り替えた。名刺は単なる連絡ツールではなく、「県をPRするパンフレット」と位置づけられ、県内の名所などのイラストを載せたうえで、「パンフレットなら担当営業マンの名前が載っているのは当然だ」というロジックで自治省を説き伏せた、というエピソードが残っている。
この方針は後任の知事にも引き継がれており、2022年の三重県知事会見でも、「北川さんが知事になった時に、県職員全員が営業マンだと。これは当然公費で名刺は作るべきだと言って、全員が、入庁1年目の人も含めて名刺を持つようになった」と、当時の趣旨が改めて確認されている。
つまり、「公費で名刺を作る」という発想は、突拍子もない新発明ではない。30年前にはすでに筋の通った理屈が用意され、一つの県で実装され、運用されてきた。問題はむしろ、これを一過性の改革派知事のエピソードとして消費し、自分の自治体には関係のない話のように扱ってきた他県・他市町村の側にある。札幌・堺・松原、そして総務省自身の動きは、いまになってようやく「三重県の30年前」に追いついてきたとも言える。
流れは確実に変わりつつある
松原市は突出した変人ではない。むしろ周回遅れに近い。
- 滋賀県は2024年8月から、それまで知事・副知事・部長級以上に限られていた公費負担を全職員に拡大した。
- 札幌市は2025年2月、職員からの提案を受けて公費負担を原則化し、デザインも統一した。
- 北海道も同月、公費負担転換に向けた検討を始めた。
- 堺市は2025年9月から公費負担に切り替え、障害者雇用の職員が庁内で名刺を印刷している。
- 総務省自身も、2025年夏から印刷会社との契約のもとで公費負担化した。「公務で使うものに自腹を切らせるのはおかしい」と総務官僚は語っている。
旗振り役であるはずの総務省が「自腹はおかしい」と認めて自ら公費化に動いている以上、「公費はなじまない」という説明はもう成立しない。むしろ問われているのは、いまだに自腹のままの自治体が、その合理的根拠を住民に説明できるかどうかである。
堺市方式は、批判を予防する設計だ
公費批判を真に受けて、つい「やっぱり自腹のままがいい」と言いたくなる首長もいるだろう。だが、堺市の事例を見ると、設計次第でコストはむしろ下がることが分かる。
堺市はこれまでに約1200人分、約5万6千枚を作成し、かかった経費はカラープリンターのリース代と用紙代などで47万8千円。外注より安く抑えられているという。1枚あたり約8.5円の計算だ。
注目したいのは、これが障害者雇用のチャレンジオフィスで行われている点である。庁内に設置した、障害のある会計年度任用職員の就労支援事業の一環として、名刺印刷を担う。Canonをはじめプリンターメーカーも「障がい者雇用×名刺の内製化」を全国の自治体に提案しており、すでに業種を問わず広がりつつあるモデルだ。
つまり堺市方式は、
- 外注より単価が安い
- 庁内印刷なので少量・随時発注ができる(異動や肩書変更による大量廃棄が出にくい)
- 障害者雇用の場が増える
- 統一デザインで自治体PRの媒体になる
というように、「税金の無駄」批判をあらかじめ封じ込める設計になっている。これを真似ない理由のほうが、よほど説明しにくい。
「全員に名刺はいらない」論への応答
それでも残るのが、「窓口業務の職員にまで名刺はいらないだろう」という反論だ。確かに、観光・セールスプロモーションを担う部署と、住民票交付の窓口とでは、名刺の使用頻度はまったく違う。松原市の人事課長も、この部署間の不公平感を改革の動機として挙げている。
しかしここで切るべきは、「全員に100枚配るか/一人も作らないか」という二者択一ではない。
窓口職員でも、地域説明会、学校・団体との調整、災害対応、視察対応、庁外研修、他自治体との連携といった場面で名刺を必要とすることはある。全員に強制配布する必要はないが、必要な職員が必要な時に少量作れる仕組みは、組織として持っておくべきだ。庁内印刷であれば、5枚単位・10枚単位の発注も可能で、過剰在庫の心配もない。
そして、ここを「自腹」のままにしておくことのコストを、自治体は過小評価してきた。デザインがバラバラで自治体としてのブランドが伝わらない。職員によって名刺の有無が違うので、市民・取引先からの印象に統一感がない。新人がベテランの非公式な「相場観」を頼りに自分の名刺を発注する。これらはすべて、目に見えにくいが確実な損失である。
名刺は「個人の道具」から「公式広報カード」へ
統一デザインに切り替えた瞬間、名刺は職員個人のものではなくなる。
自治体ロゴ、部署名、公式メール、代表電話、公式サイトと公式LINEのQRコード、防災情報・観光情報・行政手続き案内へのリンク。これらを一枚に集約すれば、名刺は「自治体の公式連絡カード」になる。市民や取引先と接触するたびに、自治体の最新の動きが小さく拡散していく。広報予算で大きなチラシを刷るよりも、よほど確実なリーチかもしれない。
悪用があれば、服務規律に基づいて処分すればよい。悪用の可能性があるからといって、公用車も、職員証も、業務用スマホも、職員の自腹で買わせる、という話にはならない。
リスクを根拠に「公費を出さない」を続けるなら、自治体は職員に対して、業務に必要な道具のかなりの部分を自前で揃えろと要求し続けることになる。それは「健全なコスト感覚」ではなく、単なる責任の押し付けである。
本当に問われているのは、自治体への信頼
自治体が公費負担に慎重になるのは、有権者から「税金の無駄遣い」と叩かれるのが怖いからだろう。だが、その怖さの背景には、日頃の税金の使い道に対する信頼の低さがあるのではないか。
- 年間作成枚数
- 総経費
- 1枚あたりの単価
- 作成方法(外注/庁内印刷)
- 掲載内容と統一デザインの方針
- 私的利用禁止のルール
これらをWebサイトでしっかり公開すれば、名刺代は「批判の対象」ではなく、むしろ自治体のコスト意識と透明性を示す材料に変わる。専門家も、「ルールをしっかり決めたうえで、公費負担すべきだと思う」「自治体側が負担しても市民から不満は出ないでしょう」と指摘している。
結論
名刺の公費負担は、税金の無駄遣いではない。無駄遣いになるのは、高い単価で、過剰に作り、経費を公開せず、ルールも曖昧なまま運用する場合である。統一デザイン、QRコードによる広報活用、庁内印刷、少量随時発注、経費公開を徹底すれば、名刺は低コストな行政広報であり、住民との信頼形成の道具になる。
むしろ、業務に必要な名刺を職員に自腹で作らせ、そのことを「行政らしいコスト感覚」だと思い込んできた慣行こそ、間違ったコスト感覚であり、不自然ではないか。根拠は出所不明の旧通達。慣行だけが残り、現場の若い職員にしわ寄せが行く。これは「健全な財政」とは何の関係もない、ただの組織の怠慢だ。
自治体が見習うべきなのは、民間の「経費削減」だけではない。必要なものには組織として責任を持ち、その費用と効果をきちんと住民に説明する姿勢である。


