自衛隊のホルムズ派遣——誰の戦争の後始末か
6月17日、トランプ大統領とイランのペゼシュキアン大統領が覚書(MOU)に電子署名し、発効した。19日にはスイスで調印式が予定されている。覚書は14項目から成り、軍事行動の恒久的終結を意図するとともに、双方は60日以内の最終合意を目指す交渉に入った。
この局面で日本政府内では、海上自衛隊機雷掃海部隊のホルムズ海峡派遣論が浮上している。木原官房長官は16日の記者会見で「国際法、国内法の範囲内で必要な対応を検討する」と述べ、政府が派遣の本格検討に入ったことを認めた。「派遣する隊員の意思確認もしなければならない」と政権幹部も語っている。
しかし、自衛隊派遣を議論する前に確認すべきことがある。この戦争を始めたのは、誰なのか。
始めた国が後始末をする
2026年2月28日、米国とイスラエルはイランへの攻撃を開始した。これには関連する国連安保理決議すら存在しない。宣戦布告に等しいトランプ大統領の一方的な声明があっただけだ。日本はこの軍事作戦に参戦も授権もしていない。
攻撃開始直後、イランは革命防衛隊によってホルムズ海峡の封鎖を通告した。ペルシャ湾内には150隻以上のタンカーが滞留した。さらに3月に入ると、海峡への機雷敷設が始まったと米情報機関が明らかにする。封鎖通告から機雷敷設へ——イランの対抗手段は、米国とイスラエルの攻撃が続くなかで段階的に強まっていった。停戦後の安全な航行のためには、その機雷の除去が必要になる。戦争を起こした当事国が生じさせた状況の後始末を、参戦していない日本が自衛隊を危険にさらして引き受ける。この構図に、どのような法的根拠があるのか。
推進論者が持ち出すのが「世界有数の掃海技術」という論拠だ。海上自衛隊は16隻の掃海艦艇と2隻の掃海母艦を保有し、卓越した能力を持つのは事実だ。しかし、何のために、他国が始めた戦争の後始末を行うのか——そこへの答えが出ていない。能力があることと、行く義務があることは、まったく別の話である。
歪められる湾岸戦争の教訓
この議論では必ずといっていいほど、1990〜91年の湾岸戦争が引き合いに出される。あの戦争で日本は約130億ドルという巨額の資金を拠出した。しかし自衛隊は派遣せず、戦後にクウェートが示した感謝のリストに日本の名前はなかった。「お金は出すが、人は出さない」——この批判が、以後30年にわたって日本の安全保障議論に影を落とし続けた。
今回の派遣論も、その教訓を踏まえた発想なのかもしれない。しかし、両者には決定的な違いが二つある。
一つは国際的な合意枠組みの有無だ。湾岸戦争は国連安保理決議678号による武力行使授権という明確な国際法的根拠の上に立っていた。日本の資金拠出も、その枠組みの中での行動だった。今回の米イラン戦争に、それに相当する国連決議は存在しない。
もう一つは日本の関与度だ。湾岸戦争において日本は、資金拠出という形で事実上の当事国に準じる立場を取った。その関与の結果として「人を出せなかった」という文脈で批判を受けた。今回、日本はこの戦争において何も関与していない。関与していない戦争の後始末を求められ、「湾岸の反省」を理由に受け入れるとすれば、それは論理の歪曲だ。
あの教訓を正しく生かすなら、結論は「次は人を出す」ではなく、「関与していない戦争に巻き込まれない」であるはずだ。
外圧ではなく、思想の問題
では、なぜこの派遣論が消えないのか。「米国に言われたから」と外圧を疑いたくなるが、その裏づけはない。
高市首相は、対米関係において一定の距離を保つようにしてきた。今回のイランをめぐる軍事作戦で日本は関与を拒否しており、3月の日米首脳会談後の国会答弁でも、首相は自衛隊の支援を米側に約束していないと明言している。対米従属と批判される高市首相だが、こと対イラン作戦に関する限り、日本は「言われるまま動く」立場はとらなかったのだ。
それでも派遣論が残るのは、外からの圧力より、首相自身の安全保障観に根ざしているからだと見るほうがよいかもしれない。
注目すべきは、派遣への意欲が今回のG7や米イラン合意よりも前から存在していたことだ。情報誌の報道によれば、高市首相はトランプの要請があればホルムズ海峡に自衛隊を派遣する意向を、戦闘がなお続いていた段階から持っていたとされる。派遣論は、首相の中にもともとあったものが、合意成立という条件を得て表に出てきた——そう見るべきだろう。
この「自身の判断で一線を踏み越える」傾向は、ホルムズに限った話ではない。台湾有事をめぐる答弁で、高市首相は集団的自衛権を行使できる「存立危機事態」に台湾有事も該当し得るとした。日本への直接攻撃がなくても自衛隊が出動できる可能性に踏み込んだ。歴代政権があえて曖昧にしてきた一線を、自らの判断で明示したのである。
国旗損壊罪、国家情報局構想——これらに通底するのも同じ構図だ。既存の制度が慎重に避けてきた領域に、自身の思想を起点に踏み込んでいく。ホルムズ派遣論も、その延長線上にある。誰かに強いられた選択ではなく、首相自身の安全保障観が選ばせている選択だ。そう理解すれば、なぜ法的・政治的なハードルが高いにもかかわらず検討が止まらないのかが見えてくる。
法的根拠は今もない
政府内にも慎重論は根強い。外務省幹部は「暫定的な停戦では派遣の判断はできない。日本は格段に他国よりも基準が高い」と指摘する。掃海艇の派遣は戦闘終結が条件とされ、そもそも機雷の数など不明な点が多いことも、政府が慎重にならざるを得ない理由になっている。ためらわせる要因は、いくつも重なっている。まず——
第一に、機雷の規模が把握できていない。米情報機関は3月にイランが敷設を始めたと明らかにしたが、どこにどれだけ敷設されたのか、その全容は確認されていない。掃海の対象がどれほどのものか分からないまま、自衛隊を送るという話になる。
第二に、MOUは60日以内の最終合意を目指す暫定的な枠組みに過ぎず、その内容についてすでに米イラン間で認識の食い違いが露呈している。イランはホルムズ海峡の開放について「イラン側が定める取り決めに基づく」と主張し、トランプが言う「無料開放」を否定している。停戦の持続可能性そのものが揺らいでいる。レバノンを含む戦線の終結なども依然として不透明な状況のままだ。
第三に、イスラエルはMOUの当事国ではない。イスラエル国防相は「レバノンに軍を無期限駐留させる」と宣言しており、戦闘終結の意思は見えない。戦線が再燃すれば停戦全体に波及しかねない。その状況で機雷掃海を実施すれば、政府の解釈する「自衛のための必要最小限度を超える武力行使」——憲法9条が禁じるもの——に当たる可能性が、政府内部からも指摘されている。
掃海部隊が日本からホルムズ海峡に到達するには約1か月を要する。その1か月の間に停戦が崩れた場合、現地に向かう部隊をどうするのか。この問いへの答えが出ないまま、派遣の検討だけが先行している。
誰の戦争の後始末か
確かに日本は世界有数の掃海技術を持っている。しかし、その技術を誰のために使うのか。アメリカとイスラエルが始めた戦争の後始末のために、参戦していない日本の自衛隊員を危険にさらすのは、何のためなのか。
「お金は出すが、人は出さない」という批判を受けたくないのかもしれない。しかし今回の日本は、停戦が確実でない以上そもそも法的根拠を欠いており、この戦争に関与もしていないのだ。
法的根拠が定まらず、停戦の確実性もなく、機雷の規模も把握できないまま、首相自身の安全保障観だけを動力に自衛隊を派遣する——その判断の責任は誰が取るのか。
問われているのは掃海技術の優劣ではない。日本がこの地域の秩序形成にどのような立場で関わるのか——それこそが、問われている根本ではないのか。

