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制度強化だけでは解決しない――コンプライアンス社会が突きつける「成熟」という課題

制度は十分条件ではないという違和感

日本テレビと国分太一氏の問題を扱った朝日新聞社説を読んだ。社説は、プライバシー保護と説明責任の両立という、放送局が向き合うべき制度上の課題を整理している。第三者委員会の調査、外部弁護士による評価、不服申し立て制度の欠如。制度面の改善が必要だという指摘は正しい。しかし、読みながら抱いた違和感がある。それは、制度を整えることが解決策の中心に置かれている点である。制度は必要だが十分ではない。制度があっても起きる問題があるという視点が、議論の前提として欠落しているように感じた。「制度が整えば解決する」という前提に依拠し過ぎている点だ。

制度ではなく個人が問われている

本質は制度の不備ではない。制度以前に「個人」が問われている。そこを見落とすと議論は噛み合わない。

同じ文化を通過しても差が出る理由

同じ時代、同じテレビ文化の中で活動しながら、問題を起こさなかった例がある。笑福亭鶴瓶、明石家さんま、タモリ。それぞれ破天荒で、今では放送できない内容を扱ってきたが、他者の尊厳を脅かす形で笑いを成立させたわけではない。自らをさらすことで空気をつくり、相手に逃げ道を残す配慮があった。彼らは「昔は許された」文化の中にいたが、「文化に甘えた」わけではなかった。

世代論では説明できない

一方、「時代が変わったから誤解された」「今なら問題になる」という説明で片づけようとする姿勢がある。しかし、同じ時代でも問題化した人としなかった人がいるという事実は、世代や文化の差だけでは説明できない。研究でも、笑いにおける「自己をさらす笑い」と「他者を利用する笑い」では、権力勾配や相手の尊厳に与える影響が異なると指摘されている。言動の種類そのものよりも、関係性、立場、そして相手への配慮の有無が結果を左右する。これは制度では補完できない領域であり、個人の資質を反映していると考えるべきである。

制度では補えない領域

コンプライアンスは外から与えられるルールではなく、内側から漏れ出す成熟の問題だ。制度は最低限の枠組みに過ぎない。その上に立つ個人が、他者を尊重する感覚を持てるかどうかが問われている。今回の議論を「制度論」だけで語ると、個人の責任が曖昧になる。ハラスメント問題が示しているのは、文化や世代のせいではなく、個人の成熟度が露呈したという事実である。

社会全体の課題としての成熟

では、社会全体として何が問われているのか。制度を整備し、第三者委員会を置き、不服申し立ての窓口を作ることは必要である。しかし、それらは「問題の発生をゼロにする仕組み」ではなく、「発生した際の処理を透明化する仕組み」に過ぎない。真に問われているのは、制度が存在しなくても相手を尊重できる感覚であり、権力を持ったときにそれを制御できる成熟である。

 コンプライアンスの強化が社会を安全にするのは間違いない。ただ、制度が人間の未熟さを完全に覆い隠すことはできない。むしろ制度が整うほど、そこから漏れ出る本質が可視化される。制度によって救われるべき人が救われる一方で、制度では救えない部分が確かに存在する。そこに向き合う覚悟を持てるかどうかが、社会全体の成熟を決める。制度の充実と同じだけ、私たちは個人の成熟という、より扱いづらい領域にも目を向ける必要がある。

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