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「禊(みそぎ)」は本当に済んだのか――自民党の「政治とカネ」問題を軽んじる姿勢への疑問

【この記事の要点】

・「政治とカネ」は過去の不祥事ではなく、説明責任の現在進行形の問題です。
・「公認」は党の意思表示であり、信頼への影響が避けられません。
・禊は党内処分で完結せず、有権者の評価で初めて定まります。

2026年2月8日投開票の衆議院総選挙を前に、自民党の「政治とカネ」をめぐる姿勢が、改めて厳しい視線にさらされています。党としては、一連の問題について一定の処分と制度対応を行い、区切りをつけたうえで政策論争へと議論を移したい考えなのでしょう。しかし、その認識は有権者の感覚と本当にかみ合っているのでしょうか。問題の核心は、時間の経過とともに自然に薄れていくものではありません。

本稿では、自民党が示している一連の対応を整理しつつ、「禊は本当に済んだのか」という問いを軸に、現在もなお残る課題を考えてみたいと思います。


問題の本質は「過去」ではなく「現在」です

派閥の政治資金パーティー収入をめぐる不記載・還流問題は、すでに起きてしまった出来事として「過去の不祥事」に分類されがちです。しかし、本来問われるべきなのは、説明責任が十分に果たされたのか、再発防止策は本当に実効性を持つのかという点です。これらはいずれも、現在進行形の課題にほかなりません。

それにもかかわらず、自民党内からは「処分は終わった」「いつまでも引きずるべきではない」といった声が聞こえてきます。そうした姿勢は、問題の風化を急いでいるように映ります。有権者が求めているのは、時間の経過による忘却ではなく、納得できる説明と一貫した態度です。

多くの人が問題視しているのは、単に処分が下されたかどうかではありません。なぜこの問題が起きたのか、誰がどこまで責任を負うのか、そして同じことが二度と起きないと断言できるのか。その一つ一つについて、十分な説明が尽くされていないという感覚こそが、不信の根にあります。


「公認」という判断が発する政治的メッセージ

今回、自民党が裏金問題に関与したとされる議員を公認し、場合によっては比例代表との重複立候補を認める方向で調整していることは、極めて重い政治的メッセージを伴います。公認とは単なる選挙手続きではありません。党として「この候補者に問題はない」「党として責任を持つ」という意思を有権者に示す行為です。

その判断が、「説明は尽くされた」「反省は十分だ」という前提に立っているのであれば、なおさら疑問が残ります。多くの国民は、そうした説明や反省が十分であったとは感じていません。むしろ、問題の本質に正面から向き合わないまま、選挙を乗り切ろうとしているのではないかという疑念が広がっているのが実情ではないでしょうか。


禊を決めるのは党ではありません

自民党は、党内処分や法改正をもって「禊は済んだ」と考えているのかもしれません。しかし、政治における禊とは、党内手続きだけで完結するものではありません。法的責任、説明責任、そして政治的責任が重なり合って初めて問われるものです。

【禊が問う3つの責任】

■ 法的責任
 違法性や処罰の有無という線引きです。

■ 説明責任
 事実関係の解明と、納得できる説明が尽くされたかどうかです。

■ 政治的責任
 主権者が選挙で評価する領域です。

とりわけ重要なのは、主権者である有権者に対する説明責任です。その説明が十分でないまま、「最終的には選挙で判断を仰ぐ」と言うのであれば、それは責任を国民に委ねるというよりも、押し付けているように映りかねません。


軽んじられているのは「信頼」ではないでしょうか

政治資金規正法の改正を含め、一定の制度的対応が取られたことは事実です。しかし、その内容については、なお抜け穴が残るとの指摘も根強くあります。制度を整えたから問題は終わりだ、という姿勢が透けて見えるのであれば、それは「政治とカネ」の問題そのものを軽んじていると言わざるを得ません。

政治は、ルールだけで成り立つものではありません。ルールを守ろうとする姿勢と、疑念に向き合う誠実さがあって初めて、信頼は少しずつ積み重なっていきます。その信頼を軽視すれば、政治全体への不信が広がるのは避けられないでしょう。


問われているのは、自民党の覚悟です

今回の総選挙で問われているのは、個々の議員の当落だけではありません。「政治とカネ」という問題に対し、自民党がどれだけ本気で向き合うのか、その覚悟そのものが問われています。

問題を「過去のもの」にしようと急ぐほど、有権者との距離は広がります。自民党が本当に信頼を取り戻したいのであれば、都合の悪い問題から目を背けるのではなく、厳しい批判にも正面から向き合い続ける姿勢を示す必要があるのではないでしょうか。

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