なぜ今「国旗損壊罪」なのか――立法の動機を問う
はじめに:政治的取引として浮上した法案
2025年10月20日、自民党と日本維新の会が署名した連立政権合意書に「日本国国章損壊罪」の制定が明記された。翌21日、高市早苗氏が日本初の女性首相に就任。その一週間後の10月27日には、参政党が刑法改正案を参議院に単独提出した。3党が合意すれば衆参で過半数を握り、来年の通常国会での成立は確実な情勢だ。
しかし、ここで根本的な問いを発しなければならない。なぜ今、この法律が必要なのか。守るべき具体的な利益とは何なのか。そして、推進派が唱える「外国旗とのバランス是正」という論理は、本当に説得力を持つのか。
「侮辱する目的」という測定不可能な基準
参政党が提出した法案の条文には、こう記されている。
「日本国に対して侮辱を加える目的で、日本国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、2年以下の拘禁刑又は20万円以下の罰金に処する」
一見すると明確な条文に見える。だが、この「侮辱を加える目的」という要件こそが、法案最大の欠陥である。
具体例で考えてみよう。Aさんが「増税反対!」と叫びながら国旗を破った場合、これは「国家への侮辱目的」とみなされやすい。一方、Bさんが無言で国旗を破った場合、目的の判断は困難となる。全く同じ「破る」という物理的行為でありながら、その時の発言内容や平素の政治思想によって有罪・無罪が分かれることになる。
これは近代刑法の原則に反する。刑罰は客観的な行為に対して科されるべきであり、行為者の内心や思想を基準とすべきではない。「侮辱する目的」の有無は行為者の頭の中にしか存在せず、それを外部から証明することは極めて困難だ。結果として、警察・検察の現場裁量に委ねられ、恣意的な運用のリスクが極めて高い。
別件逮捕の口実として機能する懸念も現実的だ。政権批判のデモで国旗を使った抗議表現をした活動家を、「侮辱目的」を理由に逮捕・拘束することが可能になる。これは表現の自由への直接的な脅威である。
米国最高裁が示した逆説的な論理
1989年、アメリカ連邦最高裁判所は「テキサス対ジョンソン事件」で画期的な判決を下した。
1984年、共和党大会の開催地ダラスで、グレゴリー・ジョンソンがレーガン政権への抗議として星条旗を燃やした。彼はテキサス州法違反で逮捕されたが、最高裁は5対4で州法を違憲と判断した。
ウィリアム・ブレナン判事が執筆した多数意見の論理は、日本の法案が抱える問題点を鮮やかに浮き彫りにする。
第一の論点:「侮辱」こそが保護されるべき表現である
裁判所はジョンソンの行為が政治的抗議であることを認めた上で、こう述べた。
「政府は、社会が単に不快である、あるいは同意できないという理由だけで、その表現を禁止することはできない」
政治的抗議とは、本質的に既存の秩序や権威への異議申し立てである。それが不快であり、時には侮辱的に映るのは当然だ。だからこそ、そのような表現こそが憲法による保護を必要とする。
第二の論点:基準の恣意性の排除
判決はさらに踏み込んだ。「国旗を敬うために燃やす(古くなった旗の焼却処分)」は許され、「国旗を憎んで燃やす」は罰せられるとするならば、政府は「行為」ではなく、その背後にある「思想・意見」を検閲していることになる。これは思想の自由への侵害である、と。
まさに日本の法案が直面している問題だ。同じ「損壊」という行為でも、敬意を持って行えば合法、侮辱の意図があれば違法。これでは行為ではなく思想を裁いていることになる。
第三の論点:逆説的な「国旗の神聖化」
判決の結論は逆説的だった。「国旗を燃やす自由さえ認めることこそが、その国旗が象徴する『自由』の強さを証明する」。処罰によって敬意を強制することはできない、としたのである。
この論理は、高市首相ら推進派の主張とは真っ向から対立する。彼らは「国家の尊厳」を守るために刑罰を科そうとするが、米国最高裁は、真の尊厳は批判を受け入れる寛容さにこそあると説いた。
推進派の論理の検証:「外国旗とのバランス」は成立するか
推進派の主要な論拠は「外国国章損壊罪があるのに日本国旗がないのはおかしい」というものだ。参政党の神谷宗幣代表は「他国の国旗はダメで、自国の国旗はいいというのは本当にいびつ」と主張する。
しかし、この論理は根本的に誤っている。
現行刑法第92条の外国国章損壊罪は、「国交に関する罪」の章に規定され、外国政府の請求を要件としている。その保護法益は「日本の外交上の利益」である。他国の国旗を損壊すれば外交問題に発展し、国益を損なう恐れがある。だから処罰する。論理は明快だ。
では、日本国旗損壊罪で守られる「利益」とは何か。推進派からは明確な答えが示されていない。「国家の尊厳」「国民感情」といった抽象的な概念しか語られない。
朝日新聞の社説(2025年11月24日付)が指摘するように、外国国章損壊罪の存在を理由に日本国旗損壊罪が必要だという論理は、「首をかしげる」ものだ。保護法益が全く異なる以上、両者の存在を同列に扱う必然性はない。
さらに重要な点がある。既存の法律で対処可能ではないか、という問題だ。
1987年の沖縄国体では、会場に掲揚された日の丸を降ろして焼き、開始式を妨害した男性が器物損壊などの罪で有罪となった。器物損壊罪の法定刑は3年以下の拘禁刑または30万円以下の罰金で、提案されている国旗損壊罪(2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金)よりも重い。
実害を伴う行為は現行法で対処できる。それにもかかわらず、なぜ新たな立法が必要なのか。推進派は説得力ある「立法事実」を示していない。
立法事実の欠如:誰も困っていない
自民党内でも懐疑的な声がある。岩屋毅氏は「日本で誰かが日章旗を焼いたというニュースは見たことがなく、立法事実がないのに法律を作れば国民への過度な規制につながる」と述べている。
興味深いことに、高市首相を総裁選で支援した西田昌司参院議員も、2021年のブログで立法事実がないことに触れ、「法律があるからではなく、日本人の慣習や常識として日本国旗を大切にしていくことが重要なのでは」と持論を展開していた。
参政党が提出を急いだきっかけは、2025年7月の参院選で「日本国旗にバツ印を付けて街頭演説を妨害する人がいた」ことだという。神谷代表は「国家に対する冒瀆になる」と主張する。
しかし、これは立法の必要性を示す事例としては極めて弱い。演説妨害自体は別の法律で対処可能であり、国旗にバツ印を付ける行為が「国家への冒瀆」として刑事罰に値するかどうかは、まさに議論の対象となる表現行為そのものだ。
歴史的文脈:日の丸が持つ複雑な意味
朝日新聞社説(2025年11月24日付)が指摘する重要な視点がある。日の丸は単純な「国民統合のシンボル」ではない、という事実だ。
戦前から使われ続ける日の丸には、侵略戦争の暗い記憶が付随する。国内外に複雑な感情を抱く人々が存在する。1987年の沖縄国体での事件も、動機の根底には地上戦が展開された沖縄戦の記憶があった。
ドイツはナチスの党旗を国旗としたが、第二次大戦後に国旗を変更し、掲揚すら禁じている。日本は旗を変えなかった。その選択自体の是非はともかく、結果として日の丸が複雑な歴史的文脈を背負っていることは事実である。
政府が国民を統合するシンボルとして国旗を使おうとすれば、その反作用として、特に少数者の側から、政府への異議申し立ての手段として国旗を使おうとする動きが出ても不思議ではない。それを抑圧する方法をとるのでは、強権的とのそしりを免れない。
真の動機:政権批判の抑圧ではないか
では、推進派の真の動機は何か。
高市首相は2012年から一貫してこの法案を推進してきた。2025年4月、インターネット番組「文化人放送局」に出演した際には、岩屋毅氏について「国旗損壊罪法案が岩屋氏の反対によって阻止された」と述べ、強い不満を表明している。これは個人的な執念であり、冷静な政策判断に基づくものとは言い難い。
連立政権合意書に国旗損壊罪制定が明記された経緯も注目に値する。この法案は高市首相の長年の悲願であり、連立交渉の結果として合意文書に盛り込まれた。政策の是非が十分に吟味されないまま、政治的合意の一項目として処理された可能性がある。
参政党の動きも示唆的だ。弁護士の小口幸人氏は「演説への抗議など気に入らない行為を警察に取り締まらせようとしているように見える」と指摘し、「自民や維新と協議せず単独で法案を提出したことは支持者向けパフォーマンスでは」とも述べている。
国際的な文脈も無視できない。香港では、中国による支配強化に抗議して国旗を燃やしたり逆さまに掲げたりした学生や活動家らが、国旗侮辱罪で相次ぎ逮捕された。2025年8月、トランプ米大統領は国旗を焼いた人を起訴するよう命じる大統領令に署名した。最高裁が1989年に表現の自由として認めた判断を覆そうとする試みだ。
権威主義的な政権が国旗保護を名目に反対派を抑圧する――これは世界的な潮流だ。日本の法案もその文脈で捉えるべきではないか。
「国家の尊厳」ではなく、「政権への異議申し立ての抑圧」が本質ではないか。そう疑わざるを得ない。
表現の自由への脅威
曖昧な基準がもたらす萎縮効果は深刻だ。芸術家は日の丸を使った表現を避け、漫画家やアニメ制作者は国旗の扱いに神経を使い、デモ参加者は抗議表現を自主規制する。弁護士の林朋寛氏が「萎縮効果が漫画やアニメの表現にも波及する可能性」を指摘するように、創作活動全般への影響は避けられない。
憲法学者の駒村圭吾氏(慶應義塾大学教授)は、この法案が憲法第21条(表現の自由)だけでなく、第19条(思想・良心の自由)にも抵触すると指摘する。国旗に敬意を表したくない人にまで敬意を強制する法律だからだ。
日本弁護士連合会は2012年の法案提出時に反対声明を発出している。興味深いことに、保守派からも反対の声がある。民族派団体一水会代表の木村三浩氏、憲法学者の小林節氏、そして元大阪府知事の橋下徹氏(「この部分は吉村維新と考え方が真反対」)まで、思想信条を超えて懸念が表明されている。
表現の自由は、使わなければ萎縮する。一度失えば、取り戻すのは極めて困難だ。
結論:立法の必要性が証明されていない
検証の結果は明白だ。
- 守るべき具体的利益が不明確 - 「国家の尊厳」「国民感情」といった抽象的概念のみ
- 既存法で対処可能 - 器物損壊罪で実害を伴う行為は処罰できる
- 基準の曖昧さ - 「侮辱する目的」は測定不可能で、恣意的運用のリスクが極めて高い
- 立法事実の欠如 - 現実に問題が発生しているわけではない
- 表現の自由への脅威 - 政治的抗議を萎縮させる効果は明白
- 思想・良心の自由への侵害 - 内心を基準とした処罰は近代刑法の原則に反する
米国最高裁の論理を借りれば、「特定の感情(怒りや侮辱)に基づいて行われたからこそ処罰する」という構造自体が、個人の思想や表現に対する国家権力の介入にあたる。
この法案が成立するかどうかは、「国のシンボルを守る利益」と「個人の内面の自由」のバランスを、日本の立法府がどう判断するかにかかっている。
だが、現時点での判断材料を冷静に検証すれば、この法案の必要性は証明されていない。それどころか、民主政治の基盤である表現の自由を掘り崩す危険性が極めて高い。
高市首相の個人的執念と、連立政権という政治的取引の産物として、表現の自由という民主主義の根幹が犠牲にされようとしている。3党で過半数という「数の力」で押し切られる前に、私たち市民は、この法案の本質を見極めなければならない。
「国のために個人がある」のか、「個人の自由こそが国の強さの源」なのか。この問いへの答えが、来年の通常国会で試される。


